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‡ 鍵 ‡

おはようございますm(__)m。いやあ、昨日は久方振りに親友のMさんと痛飲しました。昨夜は先ず、Mさんの家の近くにある、改築したばかりのSという居酒屋に向かったんですね。ここ、随分昔、何でも昭和30年代からあるそうでして、開店からもう半世紀ですよ。そして、凄いなあ、と感心しますのは、注文するや否や、間髪入れずに料理が出て来るんです。まあ、ポテトサラダとかお新香ですと、直ぐに出るのも分かるんですが、鯖の塩焼きだろうと肉じゃがだろうと焼き鳥だろうと、恐らくチーンなんでしょうが、兎に角早く、光の速さで、その品が出て来るんですよね~。ずば抜けて美味ではありませんが、メニューも豊富で非常に安価ですし、時折このお店に行くんですが、僕、不思議でならないのは、お品書きに、「食用カエル」とあるんですが、頼んでる人を見た事が無いんですよ。勇気を出して初めての告白、いやいや注文しようと思うんですが、度胸が無いなあ、何時も止めてしまいます。さて、二次会はMさんの家だったのですが、何でも秘蔵の芋焼酎がある由でして、とても美味しかったんですが、度数が非常に高く、僕、気付いたら朝でした…。参ったなあ、こういう時は熱い番茶に梅干しと思いましたが、とりあえず冷水を浴びていたら、時間が切迫して来まして、何とか定時に間に合った次第です。お茶の代わりにエスプレッソを淹れて、洗顔して、漸くスッキリしました~。

春の夜の 波も月ある 大空も ともに銀絲の 織れるところは、くれなゐの 牡丹咲く日は 大空も 地に従へる ここちこそすれ、これ、愛知で発見された、与謝野晶子さんの未発表の句でありまして、中々スケールの大きい秀句と思います。僕、晶子さんは偉大な女流歌人と思いますし、髪五尺 ときなば水に やはらかき 少女ごころは 秘めて放たじ、この様な艶やかな句が多いのが特徴ですよね。でも、この晶子さん、大変なご苦労をされた方でして、ご実家は彼の有名な高級贈答用の羊羹で知られる和菓子の駿河屋さん、鳳、ほう、と言う珍しい旧姓でしたが、ご主人の与謝野鉄幹と出会ってからが波乱万丈の人生となりました。鉄幹さんは、京都の坊さんの家に生まれ、歌を詠みつつ歌人としても有名であり、女学校で教鞭を執るのですが、まあ、坊主と教師にろくな奴は居ない、と良く言われますけれど、このヒト、すぐに生徒に手をつけるんですね…。最初の奥さんも次の奥方も、お金持ちの女子高生でして、晶子さんも和歌のお弟子さんでした。晶子さんの親友にも手を付けたそうですから、自分の養女を妻にしたという、俳優のモーガン・フリーマン並みの悪い男です。鉄幹は、晶子さんに、自分のヨーロッパ周遊費用に、国政選挙の運動資金--案の定見事落選でした。--まで出させたんですから、この坊主、ジゴロですよねえ…。僕の廻りにも、そういう艶福家がちょいちょい居た様な気がするのですが、今はどうしても思い出せません。さて、結婚後の鉄幹は、才能をすり減らし放蕩三昧、ろくな収入も無かったそうですが、晶子さんは12人の子を育てながら、和歌の講演旅行で全国津々浦々を廻り、家系を独りで支えたそうです。先の発見された和歌も、その講演旅行先に残されたものだったんですね。晶子さんは、古典を現代語訳し、それがベストセラーになりましたけれど、中でも「蜻蛉日記」が有名でしょう。

この「蜻蛉日記」のみならず、日本の文学において、日記の果たした役割って、非常に大きいんです。僕、世界一だと密かに思っているのですが、非常に古い時期から、沢山の日記が残されているんですね。紀貫之の「土佐日記」、「和泉式部日記」「紫式部日記」、「更級日記」「言継卿記」「上井覚兼日記」…。近代となると、芸人さんの古川ロッパの日記も昭和の営みが残された貴重な資料として、僕、面白く読めましたし、何と言っても永井荷風翁の「断腸亭日乗」は、世界最高峰の文学日記と言えるでしょう。

でもね、僕が最も感心するのは、実は江戸期のものなんですね。尾張徳川家の下級武士が書いた「鸚鵡籠中記」は、当時の噂話から大名のスキャンダルから生類憐みの令への批判から、元々公表する気の無かった私的な日記ですから、赤裸々に本音が綴られていまして、こよなく面白く、これはお勧めですよ。そして、これは以前の拙ブログでもご紹介しましたけれど、ちくま文庫から出ている、「きよのさんと歩く大江戸道中記」、これも大傑作であります。きよのさん、という東北の豪商の奥方が、お供を連れて大旅行をするんですが、関所は勝手に抜けちゃいますし、女性なのに芸者遊びをしたり、ショッピングに歌舞伎鑑賞にグルメにと、まあ贅沢な旅行でして、これまたお勧めの一冊です。もう1つご紹介するならば、「藤岡屋日記」かなあ。これ、幕末の江戸の商人が、65年間に渡って、心中事件から明治維新から、ありとあらゆる情報を収集、全て記録に残したものなんですね。藤岡屋はこの情報を有料で提供し、巨利を得たと言いますから、新聞の原型の様なものと言えましょう。

そして僕、この間読んで感心したのが、泉光院、という宮崎在住の山伏さんが残した日記です。ちくま学芸文庫「泉光院 江戸旅日記」なんですが、この山伏さん、56歳になってから、全国一周の托鉢の旅に出ます。6年の月日を掛けて、病気1つする事無く、余程鍛えていたんでしょう、とても頑健で無事宮崎に戻るんですが、泉光院さんは山伏ながら非常に位が高く、お侍さんでもあったんですね。華道も漢文も俳句も達者、剣術にも弓矢にも長け、多くの山伏達を育てた教育者でもあったそうで、文章も格調高く、大変面白い一冊でした。何せ山伏さんですから、道無き道を行き、その辺の農家で泊めて貰ったりする訳で、当時の庶民の暮らしぶりを知る上では、無くてはならない第一級の史料と言えましょう。さて、僕の母方は宇佐の蜷木という処の出身なんですね。当院のU看護部長も同様なのですが、彼女は長洲、という宇佐の漁師町の出身なんです。さて、泉光院さんは文化10年ですから1813年ですか、その年の10月1日に宇佐神宮に参拝、長洲に泊まっているんですね。この地について、「ここは、何故か人々の気性が荒く、銀三百匁を出しても、他人の頭を割ってみたいと思う様な土地柄なので、早々に出発す。」と書かれていました。僕の母親は暴れ馬の様な処がありましたから、大爆笑しましたけれど、10匁で確か1両、1両と言えば諸説色々とありますが、大体15万ぐらいになりますか。となると銀三百匁は30両、450万円出しても、人の頭を割ってみたいって、看護部長、長洲ってどんだけガラが悪いんでしょうか!?あ、看護部長の名誉の為に断言しておきますが、大変優しくて竹を割った様な性格の持ち主でして、僕、心から信用していますが、お酒と煙草は、少しだけ控えて下さいね~。そして、くれぐれも、僕の頭は割らないで下さいm(__)m。

よおし、では、会議に行って参ります!
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