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✈✈✈ 富嶽 ✈✈✈

おはようございます。それにしても浅田選手は残念でしたねえ。どうも日本人選手って、プレッシャーに弱いのかなあ、余り期待されない時の方が、かえって好結果が出たりしまして、やっぱり根が真面目なんでしょうね。それにつけても森元総理、流石にサメの脳味噌とかって言われただけありまして、「見る前から転ぶと思っていた」とか、この人ホント、空気を読めないと申しますか、TPOが分からない田舎者ですね。彼女なりに必死にやったんでしょうし、まだ競技が続いている段階で、そんなわざわざ追い込む様な事を言う必要がありますか。人の情が感じられませんし、図体だけ大きくて、どうしようも無い詰まらん男です。これね、前々から思っていたのですが、体が小さい人の方が、ガッツがある様に思うんですね。体躯が立派な人は、どうも流されるというか、甘えん坊が多い気がします。これ、何か理由があるのかしら、もし何かご存じの方がいらっしゃったら、ご教授頂ければ幸いです。

もう1点、書くのも嫌になりますが、福島の汚染水がまた漏れ出した由、その量何と100㌧、今までの最大の濃度で1㍑あたり2億3000万ベクレルだそうで、僕、不思議でならないんですが、こんな杜撰な対応を繰り返している、東電や政府に怒らないなんて嘘ですよ。アンダーコントロール出来ていると強弁する安倍、そして彼を支える自民党、無為無策で行き当たりばったりの東電、何の策もせず黙って見ているだけの官僚、こいつら皆同罪ですし、後世の為にも、嘘や詭弁を許してはなりません。僕、ビジネス・シーンでは何時もこう判断するんですが、例えば何か提案して、相手が黙っていたら、それは同意した事になりますもんね。大人なんですから、何か意見があれば、その場で言えば良いんです。get up,stand up,ですよ、皆さん!

さて、今日は色々とスケジュールがタイトでして、早速本題に入りましょう。僕、昨日の拙ブログの末尾でも書きましたけれど、どうしても触れたかったものですから、本日は、日本最大の飛行機王、中島知久平さんのお話と参りましょう。

群馬の農家の長男として生まれた彼でしたが、当時は明治時代、百姓に学問なぞ不要というのが常識だったんですね。大変学業優秀な彼は、非常手段に出るんです。家の神棚からお金を拝借して家出、単身上京しまして、日夜を問わず勉強に精を出します。アルバイトもしながら、暖房器具1つ無い部屋で刻苦勉励、今でいう大検を見事パスしまして、元々数学に長けていた彼は、当時の難関である海軍機関学校に見事に一発合格するんです。3番で卒業した中島さん、恩賜の銀時計を天皇陛下から貰っていますし、海軍はハンモック・ナンバーと言いまして、学生時代の成績を非常に重視、それが生涯付いて回るんですね。フランスやアメリカにも留学を許されていますから、前途を嘱望されていたのは間違いありません。そのまま海軍に籍を置いていれば、末は少将中将まで出世出来たと思うのですが、何と大尉で辞めてしまうんです。彼には大きな夢がありました。それは、「これからの戦争は大きく様変わりする。海外を歴訪し、アメリカで飛行士免許を取って分かったが、欧米の先進国は、未だ海のものとも山のものとも分からない飛行機に注目している。日本海軍も、これからは飛行機開発に予算を割いて、研究すべきだ。」と堂々たる意見書を作り、上司に提出したんですね。これ、明治の終わりにこういう提言をしているんですから、如何に中島さんが先見の明があったかが分かります。

日本海軍の組織とは極めてフレキシブルでハイカラでスマート、これはと見込んだ人は、皆海外視察をさせていたぐらいなんですね。世界一の戦艦、大和や武蔵を手掛けたのは、設計は士官さんですけれど、実際の工事にあたるのは職人さんですよね。彼らは小学校を出た程度なのですけれど、これは、と見込んだ職人さんには、改めて基礎教育を受けさせ、外国語やテーブルマナーや礼儀作法まで教え込んでから、欧米に送り出すんです。僕、何かの本で、この職人さんの、オーラル・ヒストリーやインタビューを読みましたけれど、写真を見ましたら、好々爺とした普通の老人なんですよ。「毎朝、パリのアパルトマンの前にある、カッフェーでのう、クロワッサンとかいう三日月の形のパンと、カフェオーレーで飯を喰うてたもんよ、ありゃあ美味かったのう。昼間は熱心に勉強するが、夜はムーランルージュに繰り出して、踊り子とコニャックなんぞ飲んでのう、そりゃあ楽しかったもんじゃ。婆さんには言えんがのう。」なんて、明治生まれのご老体が、広島弁で語っていまして、僕、今更ながら、日本帝国海軍の凄みを感じたものです。

さて、海軍を辞めた中島さんは、出資者を募り、故郷赤城山の麓に、大工場を建設します。「今やこの中島知久平は、帝国海軍を退くにあたり、厚誼を思い、胸中感慨禁じ難きものあり。しかし、我が目標は一貫して国防にあり。諸兄の友情恩義に応え得るの日は寧ろ今日以降にあり。ここに改めて従前の如く厚き指導を賜らん事を希い、併せて満腔の敬意を表す。」これが、日本が世界に誇る、東洋一の飛行機メーカー、中島飛行機の創立の弁でした。古の三国志、諸葛亮孔明の出師の表を思わせる、格調高く、満々たる闘志と気合を感じさせる文章ですよね。流石に明治の男は違います。

中島飛行機は、紆余曲折がありながら順調に成長、中島さんも会社経営の傍ら政界に進出、鉄道・軍需・商工大臣を歴任、政界きっての大立者となります。彼が手掛けた日本陸海軍の飛行機は、これは三菱との共同ですけれど、零戦がその代表格でしょう。そして、海軍の銀河・月光、陸軍の隼・鍾馗・呑龍・疾風、何れ劣らぬ傑作機揃い、世界中の空を縦横無尽に大活躍しました。ところが、中島さんには予てから、遠大な夢があったんですね。それは、「工業力・経済力の差で、従来のやり方では、日本はアメリカに決して勝てない。超大型の爆撃機を作り、アメリカ本土を焼き払わねば、この戦には勝てない。」というもので、これまた先見の明があったのですが、実際に戦争をしている側はどうしても近視眼的になりがちでして、この案は中々採用されなかったんですね。当時の総理大臣、陸軍出身の東条英機が、中島さんの案を漸く認めたのは、昭和19年でして、時すでに遅し、その計画は実らず、昭和20年の夏に、日本は負けてしまうのです。

その超大型爆撃機の名は富嶽、富士山の別名でして、6つのエンジンを積み、航続距離は2万㌔、積む爆弾は20㌧、大きさは今のジャンボジェットと変わらない、という空前のスケールでありまして、勿論、当時の世界最大の飛行機でした。凄いのは、高高度を飛ぶ為、敵から攻撃されない、という発想なんですね。この富嶽で100機単位の大編隊を組み、千葉は館山の飛行場を離陸、ハワイ~ロス~シカゴ~デトロイト~ワシントン~ニューヨークを爆撃、ついでにイングランド全域にも爆弾を落とし、同盟国であるドイツのベルリンに離陸、そこで休養と補給と修理をし、帰途はソ連全域を空爆して戻り、それを繰り返すという、世界一周爆撃の旅、という壮大な計画でした。本当に残念でなりませんが、日本陸軍がもう少し理解があり、昭和10年ぐらいにこの計画を実行に移していれば、世界史は書き換えられていたんじゃないかしら。

戦後の中島飛行機はアメリカにより解散させられますが、僕達は今でも中島さんの遺伝子といいますか、その子孫達を見る事が出来ます。栄光の中島飛行機は、富士重工と名を変え、スバルという名で車を作っているんです。インプレッサやレガシィでありまして、僕、車は詳しくありませんけれど、その車種が走っていると、思わず敬礼したくなりますもんね。

よおし、今日も寒いですけれど、仕事を頑張って来ます!読者諸兄の皆様方も、風邪には充分気を付けられて、楽しい週末をお過ごし下さいませm(_)m。
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