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日本で初めてカーブを投げた男

皆様おはようございます。週末は如何お過ごしでしたか!?変に冷え込むものですから、僕、とうとう羽毛布団を出しまして、ぬくぬくとその中で温もっておりました。この羽毛布団、北欧の凍える様な海を、ヴァイキングが悠々と航行していた時代からあるそうなんですね。ヴァイキングの王侯貴族の墳墓から、沢山の羽毛布団が出土していると言いますから、もう1400年近い歴史がある訳です。今では世界中の人が、当時の王様と同じ布団で寝ている訳で、これって凄い事ですよね。「趣味と聞かれてもとくにはございません。強いて言えば、そうでんなア、布団の中で、眠るとも眠らず、うつら~うつら~してんのが好きですねん。」、上方落語界のトップ・スター、何れは米朝を超したであろう、惜しくも逝去された二代目桂枝雀師匠のお言葉ですが、将にその通り、僕も全くの同感です。それでも、折角の日曜日に惰眠を貪ってばかりでは余りに勿体無いですから、僕、漸く布団から這い出まして、寝巻のまま、BSで野球観戦をしておりました。

偶々、大リーグのプレーオフ、アメリカンリーグ・優勝決定シリーズが行われていましたけれど、将にジャパニーズ・デーでありまして、セット・アップ、中継ぎの田沢投手のピッチングも見事でしたし、逆転満塁本塁打を放ったビクトリーノ選手のお爺さんは日本人の由、そしてクローザーは勿論上原投手、いや、圧巻の投球でした。全米各紙の見出しには、Mr.automatic、の文字が躍っていましたけれど、本当に精密機械の様なコントロールとロケーション--配球ですね--でした。このシリーズ中、4勝のうち、1勝3セーブですもんね、MVP、最高殊勲選手賞を獲得したのも当然と言えましょう。彼の学生時代、当時151連勝中だった、無敵キューバに見事勝った試合はケーブルTVで見ましたし、巨人在籍の頃や、WBCの韓国戦、そしてアメリカに渡ってからと、節目節目のゲームは全て観戦しています。上原投手の国際試合での強さは夙に知れ渡っていますけれど、もう38歳ですから、流石にかっての150㌔を超す快速球は滅多に見られません。現在では142~3㌔のストレートが精々なんですが、豊富なキャリアを生かした打者心理を見抜いた配球と、切れ味抜群のフォーク・ボール、そして精密すぎるコントロールを武器に、今季は4勝1敗21S31H、防御率1・09ですもんね~。いや、脱帽にロイヤル・サルート、最敬礼にスタンディング・オベーションです。投手はスピードでは無くコントロール、分かってはいても忘れがちな、野球の基本を教えてくれた気がしました。上原選手の次戦はいよいよワールド・シリーズですから、ここまで来たらアクセル全開、フル・スロットルで頑張って下さいね!!

かって、日本野球界には、「アメリカに追い付き追い越せ」との言葉がありました。日本人が、世界中から選手の集まる、アメリカ・メジャー・リーグで活躍する事を願っての言葉だったんですね。日本に野球が伝わったのは諸説ありますが、明治4年、1871年にホーレス・ウィルソンという米国人教師が学生に教えたのがその始まりでして、月日は流れて幾星霜、2002年に新庄君がサンフランシスコ・ジャイアンツの一員として、ワールド・シリーズに出場したのを皮切りに、松坂、元西武の松井、田口、岡島、元巨人の松井、岩村、井口と、ほぼ毎年の様に、世界の頂点を争う場に出るのが当たり前となりました。ここに到るまでには、多くの先人達の大変な努力があった訳で、今日の拙ブログは、ベースボール事始めと言いますか、ざん切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする、侍達によって興された、明治期の野球創成期のお話と参りましょう。

打ち揚ぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に、これ、侍の末裔である元松山藩士、正岡子規の句ですけれど、彼の短い人生は、野球と俳句と共にありました。海外のスポーツだったベースボールを「野球」と訳し、「打者」「走者」「四球」等々の用語を造り、それを全国に広めたんですね。野球黎明期の優れたプレイヤーの一人であり、野球殿堂入りを果たしていますが、上野駅を降り、右手に折れて暫し歩きますと、西郷南州翁の大きな銅像があり、そこから国立博物館に向う道すがら、左手に小さな球場が見えて来るんですね。可愛らしいサイズの草野球場なんですが、実際にこの地で子規が捕手としてプレイしていた由なんです。春風や まりを投げたき 草の原、この優れた句碑が建っておりまして、何とも言えない味わいのある野球場となっています。

そして、この方を忘れてはなりません。子規と同じく野球殿堂入りした、明治きっての大粋人と言えましょう、平岡凞--ひろしと読みます--さんです。余りに知られていないと思いますが、この平岡さん、これまた子規と同じく、侍の出でありまして、田安徳川家--暴れん坊将軍吉宗公の家系ですね--の家老の家の子なんですね。大変な快男児なんですが、拙ブログでは何度も書きますけれど、明治の男は本当に偉かったと思います。

さて、平岡さんは、弱冠15歳、元服後にアメリカに留学致します。誠に学業優秀、直ぐに英語はお手の物だったそうですが、留学中に、校長から、米国大統領ワシントンを褒め讃えるスピーチをせよ、との命令に猛反発、中退してしまいます。「僕はその様な事はご免こうむる。公衆の前で、日本の天子様の話をせよ、と言うならば幾らでも話してやろうが、日本人としてワシントンを褒める義理など何も無いから、その儀は断然お断りだ。」と啖呵を切り、激怒する校長をしり目に堂々と退学したというんですから、いや、胸がすくじゃありませんか。平岡少年はその足で機関車製作所に入社、夜学に通いながら順調に昇進、余暇には野球を楽しみ、その仕事ぶりが目に止まったのでしょう、大久保利通や伊藤博文ら、明治の元老達に乞われ、明治9年に帰国致します。

自ら日本初の、民間機関車製造会社を設立、日本の鉄道の発展に多大な貢献をしたのですが、それだけで収まる平岡さんではありません。彼がアメリカで習得した野球を学生達に広めたのですが、日本で初めてカーブを投げたのも平岡さんでありまして、打者は皆吃驚仰天、誰一人打つ事が出来なかったとか。惜しげも無くカーブの投げ方を教え、そして、日本初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立するんですね。僕の手元には、その当時の一葉の写真がありますけれど、白いユニフォームに襟付き、リボン状のネクタイのニッカー・ボッカー・スタイル、まあお洒落なんですよ~。そして、平岡さんが粋人と言われるのは、鉄道と野球に加え、三味線の東明流という流派を創設し吟舟という芸名を持ち家元となるんですね。その他にも、義太夫、小唄に長唄、常磐津、清元に踊りの師匠、歌舞伎界のパトロンと、芸事には私財を惜しまず、花柳界のお大尽として芸者衆の憧れの的でありました。

平岡さんが種を撒き、正岡子規がそれを慈しみつつ広げ、全国の関係者各位が努力し、野球が日本中に広がり1世紀半、150年の時を経て、継続は力なり、上原投手の様なスターが生まれた訳です。今の日本は、福島の放射能汚染水が、12か所の堰を超えて溢れる状況ですけれど、言うべき事は言い、東電や政府の言動に気を付けながら、前に進むしかありません。かっての日本人は、数多くの偉業を成し遂げたんですから、僕達に東北の再興が出来ない筈がありません!では、今週も拙ブログを宜しくお願い致しますm(__)m。
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