FC2ブログ

豊後三賢

雨やんで 庭静か也 秋の蝶、永井荷風の句ですけれど、いやあ、今朝はこんな穏やかなもんじゃありませんでした。将に雷雨そのもの、どしゃどしゃざぶざぶ、ごうごうピカピカ、何だかまるで宮沢賢治の童話のオノマトペの様でして、愛犬と共に散歩に出たんですが、彼女も僕も全身濡れ鼠、流石に閉口しました。さて、此の大型台風、一旦は日本海に抜け、今夜から北陸や東北方面に上陸の由、皆様どうぞお気を付け下さいね。

さて、私事で恐縮なのですけれど、先月末、当院に宇佐からのお客様が見えたんですね。かなりの遠縁と思うのですが、親戚筋の方でして、祝日だったので僕は生憎の不在、お目に掛かれず大変失礼致しました。其の方が持って来られたのが、僕の母方のご先祖様の資料でありました。母の旧姓は蜷木、になぎと読むんですが変わった名前でして、平安の昔から、代々蜷職という宇佐神宮の神官を務めていたとは聞いては居たんですね。平安期に反乱を起こした薩摩の民を、宇佐神宮の人達が討ち取った際、鎮魂の儀式として、蜷貝を撒いて御霊を慰める、此れを放生会と呼びます。宇佐神宮が、日本における放生会の元祖ですけれど、其れが始まったのが744年と言われていまして、僕のご先祖様は、其の仕事を1200年以上続けて来たそうです。今回頂いた資料に依れば、蜷木一族は宇佐神宮の伶楽使をも務めていた由でして、此れ、要するに音楽隊の隊長さんですね。所謂雅楽、笙やひちりきや太鼓、笛に琵琶にお琴等々、それらの人々を率いていたんでしょう。袖振り合うも多生の縁と申します。N様、この度は大変貴重な資料を頂き、心から感謝しています。此の場を借りて厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございましたm(__)m。

其の放生会がちょうど始まった頃の事ですが、今朝の読売新聞に、面白い記事が出ていました。古都奈良の平城宮跡、此処から出土した木簡に、ペルシャ人の名前があったそうです。ペルシャを意味する、波斯、はし、という言葉があり、「員外大属」という役職と、「清通」という名前が記された、彼の宿直の勤務の記録だった由、しかも天平神護元年と書かれていたそうで、即ち765年の物だったんですね。何でも赤外線検査で判明したそうで、こりゃ間違い無く本物でありましょう。となりますと、奈良時代にペルシャ人が日本に住んでいた事は確実です。以前の拙ブログで、関東の忍者集団、風魔一族はペルシャ系の人達だったのではと書きましたけれど、此の僕の仮説、少しは信憑性が出て来たかな!?

合縁奇縁という言葉があります。不可思議な巡り合いのご縁、という意味ですけれど、先に触れました、♪日曜日よりの使者♪ならぬ宇佐からのお客様も、貴重なご縁でありましょう。当院のスタッフともご縁があって一緒に仕事をしている訳で、此の一期一会を大事に、日々を暮して行きたいと思えてなりません。

閑話休題、何だか生臭坊主の様に、抹香臭い話になって失礼しました。でも、歴史って、人と人との出会い、其の積み重ねでして、そういう観点から見ますと、全てが繋がる感があり、とっても面白いんですよね。我が故郷大分には、豊後三賢、という言葉があります。大分が産んだ3人の賢者という意味でして、夫々、三浦梅園・帆足万里・広瀬淡窓のお三方なんですね。此の3人、江戸期を代表する教育者であり政治家であり、誠に偉大な方々でした。

先ず、一番年かさの三浦先生ですが、此の方は大分空港の近く、国東の産でして、元々はドクターなんです。医業の傍ら、地に足の着いた思索に耽ったと言われています。医師であり思想家であり、そして哲学者だったと言えましょうか。哲学は全ての学問の基礎と言われていますけれど、僕、どうも空理空論を弄ぶ観念論の様に思え、決して好きではありません。でも、三浦先生は流石でありまして、天地には理が有る筈だと仮定、其の為に万巻の書を読み、そして宇宙の成り立ちを知るべきと考え、何とまァ、星の観察から始めたんですから、こりゃ只者ではありません。実際、ご自宅には世界地図があり星図があり、天球儀まであったそうで、数多くの著作を記し、多くの門人を育てました。此の三浦先生が、大分に学問の種を蒔いたと思います。三浦先生が亡くなる頃、帆足先生と広瀬先生が生まれます。両先生とも、郷土の先人である三浦先生の多くの著作を、間違い無く読んだ事でしょう。実際、両先生の交流もあったそうですしね。さて、帆足先生は日出という寒村に居ながらにして、オランダ語を習得、藩政にも多大な功績を残しましたが、本質は教育者でした。三浦先生の影響もあったのでしょう、小さな私塾を開校、天文学や医学を筆頭に、物理や地理に博物学までを教えた由、其の門人の1人に、福澤百助という人物が居たんですね。此の百助さんが、福澤の姓でお分かりの様に、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、そう、慶應義塾の創始者、福澤諭吉先生の父君であります。ですから、日出の小さな私塾が、慶應義塾のお師匠筋にあたる、という訳なんです。

帆足先生に刺激を受けた訳でも無いんでしょうが、少し年少の広瀬先生は、日出にやや遅れて、日田に咸宜園という私塾を開きます。此の咸宜園、実は江戸期における日本最大の私塾でありまして、門下生は何と、5000人近かったとか。此処では、極めて平等なシステムが敷かれ、身分も出身地も年齢も性別も問わなかったそうなんですね。江戸期には考えられないリベラルさです。そして、やはり天文学は勿論の事、医学数学漢文が学べ、生徒達に寮を運営させ社会性までもが身に付いたとか。道理で、卒業生の面々、凄過ぎるメンバーですもんね。日本陸軍の生みの親、大村益次郎。日本を代表する蘭学者の高野長英。総理大臣を務めた清浦奎吾。其の他にも、僧侶に政治家に実業家、官僚に画家に医師、歌人に詩人に教育者、検事総長に書家に文学者と、まァ綺羅星の如く、明治を動かした逸材揃いです。中でもユニークなのは、日本初のカメラマン、上野彦馬も咸宜園の出身でして、彼の有名な坂本龍馬の肖像画を撮った人ですね。此れだけ多岐に渡って人材を輩出した訳でして、咸宜園の自由な教育スタイルがお分かりかと思います。そうそう、現在の大分県知事の広瀬勝貞さん、僕、1度だけ直にお話した事がありまして、大変柔和なお方でしたが、彼の姓で分かります様に、広瀬淡窓先生の子孫であります。そうだ、大事なことを忘れていました。京都の名門私大の立命館、此処が創立した際に、咸宜園から多くの先生が招聘されたんですね。ですから、立命館大の校風である、「自由と清新」は、咸宜園の影響があると思います。そして、立命館大ともなれば、多くの優秀なOBがいらっしゃいますよね。僕、中でも凄いと感心しますのが、安藤百福さんでして、台湾で生まれ日本で育ち、立命館の夜学を卒業後に発明したのが、そう、日清チキンラーメンであり、カップ・ヌードルです。特にカップ・ヌードルなぞ、僕、ネパールでもアメリカでも豪州でも見たぐらいで、世界80カ国で売られ、総計400億食が売れ、今や宇宙食にもなりましたもんね。

三浦梅園先生が、大分の国東の寒村で私塾を開いたのは1750年頃です。以来其れから3世紀弱の間ずっと、帆足先生の私塾や咸宜園を経て、立命館なり慶應義塾の学生さんや教授達の知恵が脈々と受け継がれ、そして出来た日清のカップラーメンは、世界の飢餓をも救っている訳でしょう。いやあ、歴史は日々の生活と共にある事を実感しますし、泉下の豊後の三賢人達も、其れを知ったら、以って瞑すべし、さぞや喜ぶ事でありましょう。と、此処まで書きましたら、何だかお腹が減りました。よおし、今日のお昼は折角ですし、日清のラ王かUFOかどん兵衛にしようかな!?
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

しもごおり

Author:しもごおり
OSHブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR