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☖ 将棋の殿様 ☖

恋の矢の 的はずしけり 秋の風、真砂女の艶っぽい秀句ですけれど、いやはや何とも、此処数日の九州のお天気は、大変な荒れ模様でした。矢が的を外す処ではありませんで、宮崎だったか長崎か、竜巻までもが発生した由、こりゃ堪りません。皆様、外出時はどうぞお気を付け下さいませ。

さて僕、昨日はお休みを頂きまして、遠方まで仏事に行っておりました。其れにしても、大変な雨量と湿気でして、体力を相当消耗してしまい、今日は何だかへばり気味であります。汽車旅の帰途、駄句を捻ったり、ハイ・ボールを呑んでうとうとしたり、詰将棋を解くにも読書にも倦み、車窓を眺めながら駅弁を頬張っていました。此の駅弁、世界有数の文化と確信しますが、僕、かなりの国々の列車に乗りましたけれど、此処まで多種多様なのは日本だけですよ。豪州の夜行列車では、立ち飲みの車両があり、冷えたワインを呑めたのはありがたかったですが、食べられるのは、サンドイッチにクラッカーにチーズ程度でした。インドも同様、粗末なランチ・ボックスにはこれまたサンドイッチ、サービスの紅茶の旨さには目を見張りましたけれど、其れだけですもんね。台湾の駅弁は、おかずが全部ご飯の上に乗っていまして、味は決して悪く無いんですが、見た目がねえ…。フィリピンでは、薄手のビニール袋にご飯やおかずを入れ、スプーンで食べるという方式、此れでは残飯処理の様、味はエスニックで悪く無いんですが、此れも日本人には合いません。韓国は種類が少なく、東南アジア各国は何処も代わり映えせず、アメリカはちっとも美味しくありませんでした。さて、本邦における弁当の歴史は古く、平安期からと謂われています。ですが、最もポピュラーとなったのは安土桃山期でして、弁当という言葉も此の頃に生まれた由なんです。吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき、静御前の有名な恋歌で知られる奈良の吉野、此処で太閤豊臣秀吉公が花見を行いました。参加した大名達に、其の家来達や女官達を合わせて総勢5000名と言いますから、空前絶後の花見だった訳で、さぞ豪奢なお弁当を持って行った事でしょう。

武家が支配する世の中は、凡そ1500年続いた訳ですから、僕達の生活に様々な影響を残しているんですよね。其れが最も端的に表れるのが、日々3度摂る食事でありましょう。例えば此処大分でも、戦国期の大大名、大友宗麟公の大好物だったと謂われる料理が残っていますもんね。黄飯--おうはん--と呼ばれる、クチナシで黄色くしたご飯は、まるで日本版パエリアの様です。ご飯の上に梅干しが乗ったシンプルな日の丸弁当、此の発案者は上杉謙信公と謂われています。戦争の際には、食糧の確保や輸送は不可欠だった訳ですから、夫々の大名はさぞ、しのぎを削った事でありましょう。

此れがね、時代が下がり江戸期になりますと、世の中が平穏無事になりますから、段々と平和の様相を呈して来ます。僕、割と好きなのは、長崎は平戸の松浦一族なんですよ。松浦氏と謂えば、倭寇の親玉であり海賊の出身です。其の所為でしょう、ご自身の領地はとっても国際色豊かだったんですよね。明の国の商人が多く住み、ポルトガルやスペインやオランダの商船や宣教師がしばしば訪れていました。イギリス人が初めて日本人と会ったのも、此処平戸なんですよ。さて、イギリス船の船長を迎え、宴席が開かれたのですが、ホスト役は隠居したばかりの松浦鎮信公でありまして、驚く事に、其の際のメイン・ディッシュは各種野鳥のグリルでした。今ならば洒落てジビエと呼ぶ処でしょうか。平戸はコスモポリタンな街でしたから、欧州人が何を好むかを熟知していたんでしょう、遠来のイギリス人達は大喜びだったとか。其の接待が功を奏したのか、平戸にはイギリスとオランダの商館が置かれます。只ね、鎮信公は大の食いしん坊かつ洋食を非常に好んだ上、隠居の身ですから気楽なもの、お昼時になると、お供を引き連れ、イギリスとオランダの商館を訪ねるんですって。つまり、洋食の昼飯にありつこうという魂胆、思わず笑ってしまいます。そして、此の平戸の商館が、長崎の出島に受け継がれる訳ですね。鎮信公、さぞかし落胆した事でしょう。さて、此処からは僕の推測なんですが、此の気風と食文化が長崎の地に受け継がれたのではないか、そう思うんですよ。長崎は、和・洋・中の食文化が混在するユニークな街ですし、卓袱にせよトルコライスにせよハトシにせよ、他所では見られない、独特の食べ物ですもんね。此のミックスで思い出しました。鳥取のとうふちくわ、読んで字の如しでして、お魚と大豆を混ぜ合わせた郷土料理です。低カロリー高蛋白、僕、大分であったB級グルメ大会で1度食べましたけれど、さっぱり柔らかく、中々美味しかったですよ。実は此れ、貴重品だったお魚と、地域の名産だった豆腐を組み合わせ、領民達に栄養を摂らせようとした、鳥取藩のお殿様のアイディアでした。

閑話休題、京都はまァ例外として、金沢と松江と謂えば、全国1位と2位の菓子処として有名です。此の両地は、加賀の前田家、出雲の松平家の領地でした。共に名家であり、名君が多いのですけれど、皆さん、風流な茶人ばかりだったんですね。となりますと、当然和菓子が必要となります。よって、彼の地では今でも朝食に、お抹茶と和菓子、という方も多いそうですよ。僕の両親、共にもう亡くなって長いですけれど、亡母がこよなく愛したのが、加賀の和菓子の「長生殿」、此れ、落雁であり、4世紀に渡る歴史があるんですが、此の名付け親が、備中松山藩主、小堀政一公であります。小堀公は、民政家として大変優秀でしたが、茶人としての方が名高いかもしれません。よって、先の「長生殿」の名付け親になった訳です。また、ご自身の領地でも、其の地独特のゆべし--柚子の和菓子ですね--を造り、其れが400年後の今も、岡山県高梁市の名物であります。

お茶と謂えば水が必要ですよね。異色と謂うか変わり種の殿様も居たものでして、下野国と言いますから、現在の栃木県に、黒羽藩大関家という殿様が居まして、実は此の人、日本各地から名水を集め、水質を研究していたんですって。どうもね、研究家というか、学者であり教育者の面があった様で、其の水の研究から派生した形で、堤や開墾の為に水利事業に長け、温泉地で硫黄を採掘、煙草や麻を特産品とし、江戸期には極めて珍しい事に羊を飼い、ウールの毛織物を作ってたんですから、此の先見の明は大した物です。そしてこれらは全て書物にまとめ、藩校に保管してありました。此の藩校の流れを組むのが、今年の甲子園大会で優勝しました、作新学院なんですね。

僕が好きな大名、もう1人だけご紹介しましょう。徳川御三家の紀州藩、其の初代藩主の徳川頼信公であります。此の人、暴れん坊将軍吉宗公のお爺さんなんですが、領地は紀州であり今の和歌山ですから、南紀白浜を筆頭に温泉地ですよね。頼信公の趣味は湯治でして、此れは領地に温泉が湧くから分かります。そしてもう1つの趣味は捕鯨でした。和歌山は元々捕鯨が盛んな処ですが、殿様自ら船に乗り、銛で鯨を突いて仕留めた由でして、頼信公、ちょっと豪快過ぎませんか!?和歌山の太地町では、鯨の刺身やすき焼が名物ですけれど、きっと頼信公も喜んで召し上がっていたに違いありません。

こんな事を書いていたら、とってもお腹が減って来ましたけれど、戦国期や江戸時代は、為政者と民衆の距離は、現代より余程近かったんでしょうね。だから民の現状がつぶさに分かり、地に足の付いた政治が出来たのでしょう。だって、現代において、時の総理大臣が捕鯨船に乗り、漁師と共に鯨を獲るなんて考えられません。僕、ノスタルジックかもしれませんが、平成の今より、何だか江戸時代の方が良かった気がします。当然、原発も無かったですし…。せめて今日の病院給食は、其の江戸時代に生まれた4大名物、鮨・天婦羅・鰻・蕎麦のどれかだったら良いなァ…。
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